鈴木大拙

内外権威者の多くは、禅宗が日本人の性格を築きあげる上にきわめて重要な役割を勤めたという点で、意見をひとしくしている。 禅は仏陀の精神を直接見ようと欲するのである。 禅は、無明と業の密雲に包まれて、われわれのうちに眠っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈伏するところから起こるのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。 つまり、「心は心に非ざるが故に心なり」で、否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に「非」の立場にある、絶対に相向い立っているが、この「非」の立場が、ただちに「即」である。自分はこれを禅の論理というのである。 真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。 禅は科学、または科学的の名によって行なわれる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。 禅匠は、ある理屈づけに対して、その方が都合がいいと思えば、かならずしも伝統的の解釈にしたがわずに、それによって、自分自身の哲学的構造を打樹てていいのだ。禅徒はときとすると、儒教徒、ときとすると道教徒、また、ときとすると神道家とさえなりうるのである。禅的経験は、また、西洋哲学によっても説明することができる。